富岡製糸場について

江戸時代末期。400年の鎖国を終えた日本は、海外との貿易を始めました。しかし、開国したばかりの日本は、まだ製造業の技術は低く、対等な関係の貿易ができませんでした。

しかし、江戸時代の間も、世界に負けない技術を持っていたものがあります。
それが生糸。生糸は日本の最大の輸出品として生産量が増大していきました。
そして、日本初の鉄道が走り、横浜にガス灯が作られるなど、日本が近代化を始めた、明治5年(1872年)、日本で始めての官営(国営)の製糸場が群馬県富岡市に誕生しました。
それが富岡製糸工場。長さ約140.4メートル、幅12.3メートル、高さ12.1メートルの巨大な繰糸場は、当時、世界最大規模を誇ってっていました。

それまでの生糸は繭農家がそれぞれ座繰りと呼ばれる機械で紡いでいましたが、富岡製糸場では最新鋭の製糸機械を導入したことで、生糸の大量生産を可能にしました。

また、富岡製糸場では工女を育て、各地の製糸場の指導者として活躍するため、教育体制も万全でした。

製糸場の工女というと、映画にもなった「あゝ野麦峠」のような辛い生活を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、富岡製糸場で働く工女は、華族(大名の一族)や士族(武士の一族)の女性がほとんどで、いわばエリート中のエリート。

快適な環境の女工館など、労働環境でにも恵まれていたそうです。

明治26年(1893)に民間企業に払い下げされた後も、品質に重点を置いた生糸は海外でも好評で、日本の輸出産業の主軸として、経済を支えてきました。

しかし、時代と共に、日本の輸出産業の中心は自動車などの工業製品へと移り変わっていきました。明治、大正、昭和と、激動の時代を駆け抜けた「富岡製糸場」は昭和62年(1987)3月操業を停止しました。

その後、富岡製糸場は、繰糸場、繭倉庫、宿舎などの主要な建物が国の重要文化財として認定され、ユネスコ世界遺産の暫定リストにも入るなど、日本の近代史を後世に伝える、大切な役目を与えられています。


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